愛と革命と紫京院
今週の月曜日の帰り道に電車で途中まで書いて、なんとなくお蔵入りにしていたのだけど、鮮度の高いものなので載せます。
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今日は昼間にフラッシュバックがあった。一瞬で3年前の今頃に戻って、思考が飛んで話が入ってこない文字が入ってこない、手は震えて瞼は落ちてくる、ドキドキしてお腹が痛くなる。道路に飛び込むか、電車を止めるか、仕事中はそんな衝動で腕をずっとつねってた。今すぐに眠りたかったけど、大事な女に会いに行く予定が、私にとっては使命のようなものだから、目を開いて歩いて行った。
フラバなんて気の持ちよう、気の持ちよう!と自分を奮い立たせようとして逆に凹むなんてことが私はよくあるのだけど、女に会いに行くために、この道を歩いて行かないと、と思うと、目を開けるのにそんなに苦痛を要さなかった。
また、フラッシュバックのトリガーは、単なるトリガーであり、あの時そのもの、ではない。今ここに、あの人たちはいなくて、私は、今ここに、女たちといる。例え仕事中で離れてても、帰れば会える。当たり前なんだけど、難しい。あの時のあの人たち、の記憶に、今・ここを生きることを邪魔されないことが。今日は人生で初めて、泣きながら怒ったと思う。何度か、同じような話題で曖昧な顔をしたり、ちょっと拗ねたりはしたと思うけど、そういうのは困る、と言ったら涙が止まらなかった。というのも、最近、「私は」を主語にして話し、行動することを目標にしていて。NGワードは、「なんでもいい」「どっちでもいい」。それが自分にとっていい影響をもたらしていると感じている。そこで、タイムリーにも劇団で「アサーション・トレーニング」の概念が隆興した。昨日のトレジムでのポッドキャスト公開収録でもその話は登場した。概要は実際の音声を聞いてもらえるとわかるのだが、「女は自分のことを語るべし」ということだ。
トレジムでやった、トレメンドス流稽古「スピーチ」という、自分の好きなものについてフルパワーフルテンションフルスピードで語るというメニューがある。これ久々にやったんだけど、上手くなった、ってフィードバックがあった。これは、私生活で「私は」から話し始めるのを意識したのと、「なんでもいい」「どっちでもいい」をNGワードで過ごしていたことに起因していると思う。
この「スピーチ」というメニューは、やり方としてはまず好きなものを10個書き出すところから始まる。聞き手がその中のどれか1つをお題に選んで話者がスピーチをする。この、好きなもの10個書き出す、というところから、「女が自分について語る」ことの難しさが表れる。私の場合は、ちょっと好き、くらいじゃ話しちゃ
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ここまで書いて、終わっている。
この日、初めて泣きながら人に怒った時、革命が起こったと思った。トレメンドスと出会って、フェミニズムを知った時と同じだ。フェミニズムを知った時も革命が起こったと思った。町中を歩くみんなに、私はフェミニストだぞと言って自慢して回りたかった。
フェミニズムを知ることを、「目覚める」とよく言うように、また、マトリックスや、赤い林檎や白い林檎のように、人生を二分する、かのような言い方がよくされると思う。実際、大きくは二分されるだろう。
だけど、月曜日のあの時間、帰り道、革命は何度でも起こすもの、というメモを残していた。一度、フェミニズムに目覚めたら、ずっと成功し続けなければならないなんてことはなくて、むしろ、何度も変わり続けなければならないのだ。と書いていた。
フェミニズムを知ることは人生を二分してなんかくれない。もちろん、大きくは二分されるし、私たち女の人生の中で、社会的な要因以外、自分の内面、という点でのレールがあるとしたら、最初に現れる2択のトロッコ問題だとは思うし、そこで選ぶのに「フェミニズムを知る」「赤い林檎を食べる」方を選ぶことは、大前提。私は、この大前提を共有できる人と一緒にいたいし、この大前提を届けるために舞台に立ってきた。だが、自分自身は、もはや、この大前提からは遠くまで歩いてきている。赤い毒林檎の先には、もっともっとたくさんの毒林檎が枝分かれして実っているのだ。
トレメンドスでも、前職の店頭でも、勉強になりました、とか、知的、とか、文章が好きと褒めてもらうことが多くて、すごく有難いし、自分が頭一つ秀でてることとして、大事にしないといけないと思う。このレターも同じ。
トレメンドスではよく、長所は短所で、短所は長所、と言う。本当の意味で色んな人生の女が集まるここだからこそ生まれる素敵な考えだと思う。私の人生にもそれは当てはまる。
きっと分かる人は分かると思うけれど、私は元々は結構な"教育!教育!教育!"環境で育ってきた。今でこそ、そんな私だから得られたものを人のために使わなきゃいけない、と思って活動してきたけれど、思い返してみると実のところ私はそこへの適性が全くなくて、無理して演じてきたのだと分かる。
私は子供の頃の記憶が人に比べてあまりない。人と比べるものではないと思うけど、私にとって、全ては相対評価だったから。
記憶がないことを解離だと知るまでは、地頭が悪いからだと思っていた。
思い返してみて、私が自我が芽生えた(=記憶と、自分の作画が今と解釈一致を始める)のは小5くらい、お受験が始まった頃。
これより前は、習い事に行きたくなくて泣いてる記憶がよく思い出せるし、小5からは、そうならないために、頑張り始めたから、私の中で、認めることができるガキだ。それより前は嫌いなガキだから、私だと思えないというのが一つの理由だ。
ドアを常に開け放して、勉強しているかどうか、ピアノの練習をしているかどうか、母が後ろから見ていた私の人生は、うしろから見られても問題ない形になるように作られている。
その反面部屋がぐちゃぐちゃなわけだけど、むしろこちらのぐちゃぐちゃな部屋の方が正常な私なのだ。
私が自分の頭一つ出ている部分として、どこに出しても問題ない、理論整然としていて、知識がある、そういう部分は、子供の頃の私がサバイブするために身につけたレトリックであり、内面や真実は伴わないことが多いのだと思う。
女性大会議のレイプされろ!の曲中セリフ、「レイプされないように、これから何を言おうか、どんな言葉を選んだら解放されるか考えたことがない人がトンポリをする」は私の言葉原文ママなんだけど、これ、レイプされた女なら分かると思う。この状態でいかに、自分の弁論でこの状況を打破するか、みたいな。全力説得ガチ勢人生といったところ。
これは大人になってから、というか最近、人に話してびっくりされたから、普通のことじゃなかったんだなと思ったことなんだけど、小学生の頃から、何か私が親を怒らせてしまうと、私が親の納得することを言えるまでどんなに深夜を回っても寝させてもらえなくて、リビングで膠着状態、無言タイム耐久チキチキレース、早く気まずくなってもう終わりにしてくれタイム、が発生していた。親、と言っても父親だった。こうして、レトリックでのみ茨の道をすり抜けてきたのなら、例の曲中セリフみたいに、その茨がレイプに代わったとしても私は同じように脳内がインテリキャラのアニメの表象みたいに明朝体の文字とか何を言ったらなんて返ってくるかとかのシュミレーションが高速で構築されるわけで。
たとえばこれが認知行動療法だったとしても構築されてしまう。本当に自分の思ったことなんかより、この場でなんて言ったら「まるい」か、そういうものが口から出てくる。逃げてるつもりは毛頭なくて、それ以外の自分がもはや信用できなくさせられていたからだ。
お膳立てされた、嘘まみれの、その場しのぎのハリボテの私をみんなが好きなのなら、本当の自分に何も価値はないなと思ってしまうのも、ハリボテじゃない私を自分が一度でも肯定できた試しがない、親に、わたしをみてと言えたことがない、そんなところから来ている。ね、アリス・ミラー!才能ある子のドラマ!
これからは出来るだけ、ハリボテじゃない、男性支配社会で良しとされる部分じゃない、ところこそをみんなに見てもらいたいと思うし、みじゃの良さとか悪さを全部ひっくり返していけたらいいなと思うし、案外私が思うよりみんなは私にいい意味で期待してないというか、「かくあるべし!」みたいなの押し付けないでくれるのは分かるので。
さて少し余談だが、私は、俳優をやっているのにもかかわらず、言葉や音楽に意味を感じられない時がよく発生して。つまりどういうことかというと文字通りそのままだ。
もっと噛み砕くと、言葉は、50音のガチャガチャ生成の結果で、音楽は、音階とリズムのガチャガチャくじの結果に思えるということだ。組み立て続けていたらいつかはもう1通りも組み合わせがなくなってしまう、有限の可能性のうちの一つにすぎない。
このレターも、何日かにわけて書いている。それも、自分の言葉に意味を感じられる時とそうじゃない時があるからだ。何を書いても、たかだか50音ガチャでしかないと思うと全てが出鱈目に見えるんだよ。虚しいとか焦るとかは思うし早く意味を感じたいと思うけど、また失うのが怖い、と思ってる、このフェーズの時は。
これ、復讐幻想で出てくる、世界が見せかけに見える、ということだと思う。
対して、私は目に見えないものを信じられる時もある。例えば、トレメンドスに出会った時、正確には、2022年7月のメサイア・カーミラの合流時に、私が被害直後だったことは運命だと思った。だから、大声で自分はフェミニストになったと自慢してまわりたくなったし。直近だと、このレター冒頭、月曜日のことも、自分の内面で、革命が起きたと思った。あとはステージとかは顕著で、自分は今黄金の輝きが実際に目に見えなくても実際出ているぞ、とか、死んだ女の魂が一挙に私の元に集っているのだぞ、と感じることが出来る。
50音ガチャや音楽リズムゲーに感じる無意味フェーズ(多分こういうのをニヒリズムって頭いい人は呼ぶ)の時は、そういうのを感じられないってことだから俳優としてほんとに致命的だしなんなら人としても、生きる意味を感じられないことなのですごく怖い。
こういうのも、教育!教育!教育!という中で自分のハリボテをせこせこと切り貼りして、内実は伴わなくても相手の気にいる弁論で、それが無理になる例えば大学で共学になったりすると行動でその場をしのいで相手の男の不機嫌という恐怖をサバイブする、正午以前の私を、否定するために築き上げた、「出来る子」という竹馬で殴ってハコに押し込めて、本当のことよりも外付けハードディスクを何より最優先にしてきたから、自分が見たり聞いたりすること、人が話すことも、自分がするのと同じようにハリボテだろう、内実は伴わないだろう、と思うのだ。
本当のこと、内実、そして意味というのはつまり直感だと思う。運命や革命を見出すのも脳みそじゃなくて脊髄だという感覚がある、時間を要さないから。
私は、すごく傷ついたフェーズでトレメンドスの現場に合流したから、傷にも意味を見出せた。あの時の寂しさは癒えなくて、あの時の自分が選べなかったことを選べる人間を見ると相手が誰であっても腹立たしく思うこともあるから、寂しい私にはまだまだ寄り添えてなかったけれど。
あの時の私でも、運命を見出せた、目に見えないものを信じられたのならこれからは尚更出来るだろう。
魔女の赤い毒林檎を食べた後も、日々、運命的な赤い林檎は転がっていて、それは、フェミニズムに留まらない、自分ニズム(変だし語弊を生みそうだけどひとまず!)なのだと思う。男の加害の前に、私の自語りをしよう。
私って結構ロマイデ脳震盪なので男が絡んだ途端簡単に全部運命とかって思っちゃうんだけど、逆がいい。箸が転がっただけでもそこに意味を見出せる、女1人と出会うたびに、毎日自分にも相手にも革命を起こせるような、それが女の生き方であり、私に最も困難で同時に容易いことなのだ。きっと「メラつき」の一種に入るだろう。
月曜の夜、私はお見舞いで行ったのに、私は支離滅裂な泣き方をして、なんでお前が泣いてんの?という感じなのに、私と話をしてくれた友人には、本当に私の人生に登場してくれてありがとうという気持ちと、尊敬してる気持ちと、愛と面白さに溢れた自慢の友人です。あの時間のこと一生忘れない。
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